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日语中【看见】相近用法

作者:admin    文章来源:盐田区外国语学校    更新时间:2017-12-07
 「見える」,「見られる」和「見ることができる」这三个说法意思相近,都属于可能表现,但是在特定情况下,使用其中哪一个才算正确,或者说都可以使用,但要区别意思上细微的差别,这对于初学者来说有很大的困难。为此,本文主要就「見える」和「見られる」,「見られる」和「見ることができる」之间相近用法尽可能详细地进行分析和比较,分清它们的异同,以期正确地理解和运用。
  关键词: 可能 見える 見られる 見ることができる
  
  一、「見える」和「見られる」
  
  译成都是“能看见”“看得见”。关于一般书上解释二者的区别是:「見える」是自发,与意志无关自然而然映入眼中;后者是可能,描述主语带着主观意志能看见或看不见。但是请看下面两个例子。
  场面A:前の人が立っているので黒板が見えない。
  1)「すみません。見えないので、座って下さい」
  场面B:字が小さくて先生が黒板に書いた字が見えない。
  2)「字が小さくて、見えません」
  上面两个例子只能用「見える」,只以自发作解释有些勉强,因为两种状况都是说话者带着“想看”的想法说出「見えない」。为什么不能用「見られる」呢?日语学习者将其搞混的原因主要有两个,一个是没能准确理解「見える」的自发含义,另一个是还有可以互换的情况。那么将「見える」,「見られる」的区别分成以下三种情况:只能用「見える」;只能用「見られる」;两者都可以,但在意思上有差别。
  「見る」这一事实成立的话分两种情况:A.从微观来看,以人和对象二者关系为焦点,看对象的样子、动作等能不能作为视觉情报被捕获;B.从宏观来看,以“人看事物”这种全体来把握。以图示来表示。
  A.以人和对象“两者关系”为焦点
  
  1.只能用「見える」
  “自发”是“自然映入眼中”,再作进一步的理解一定要满足三个条件:①像图示那样以两者关系为焦点;②对象和人要“同时存在”;③捕捉到“具体存在”(对象的样子、动作等)。而此时人的意志不是重点。而「→→→」这个环节没有遇到任何阻碍时就是「見える」,遇到阻碍便是「見えない」。
  无阻碍:「ほら、あそこに大きな家が見える(×見られる)でしょう」
  「わあ、細かいところまでよく見える(×見られる)ね」
  阻碍1:人自身视力原因 3)目が見えない。(×見られない)
  阻碍2:视线遇到了问题 4)前の人の頭で黒板が見えない。(×見られない)
  5)暗くてよく見えない。(×見られない)
  6)遠くてよく見えない。(×見られない)
  阻碍3:对象自身原因 7)字が小さくて見えない。(×見られない)
  2.只能用「見られる」
  是在“想看”时条件满足使“看”这一行为成立时用「見られる」,条件不满足时用「見られない」。
  A假设条件:8)モナリザはルーブル美術館へ行けば見られる。(×見える)
  9)日本へ行ったら、富士山が見られる。(×見える)
  10)「このテレビは衛星放送が見られる。(×見える)
  (=このテレビは専用のチューナが内臓しているので)
  (=このテレビを使えば)
  B确定条件:11)アメリカに行ったので、本場のミュージカルが見られた。(×見えた)
  12)今日は早く帰ったので、6時からのニュースが見られた。(×見えた)
  13)二倍のお金を出したので、いい席で見られた。(×見えた)
  上面的例子可以清楚地看到可能与自发的差别,“去卢浮宫”、“日本”、“早回家”等不是表述人和对象“具体”“同时”存在的场面,而是表述“看”这一行为在条件满足的前提下成立。这种情况下只能用「見られる」。
  3.「見える」和「見られる」二者都可以使用
  14)西側に窓があれば富士山が見えるだろう。/見られるだろう。
  15)空気が澄んでいるので、富士山が見える。/見られる。
  两个句子用「見える」和「見られる」都可以是因为上述例句介于自发和可能中间的位置上。也就是说不只是从全体条件满足来看,同时兼具“同时性”和“具体性”的要求。但是在意思上还是有细微的差别。「見える」,「何かを見ることが可能だと捕らえられる状況にあって、当人の意思にかかわりなく、自然に何かが目に入れば「見える」と成るということである。」①「見られる」、「何かを見る…意思や欲求を抱いた場合に、それを実現することが可能な条件が整った状況身をおくことができるかどうかを問題にする際に用いられるのである。」②但请看下面几个意思相近的句子。
  16)「わあ、富士山が見える(×見られる)よ」(1)
  17)「あそこから富士山が見える(○見られる)よ」(3)
  18)「あそこに登れば富士山が見える(○見られる)よ」(3)
  19)「日本に行けば、本物の富士山が見られる(×見える)よ」(2)
  四个句子都是在说“能看见富士山”的事情,但只是稍加变化,就不是两者都可以使用了。17)「あそこから」和18)「あそこに登れば」的句子中,虽然现在不在那个地方,但是一旦条件满足,就可以“同时”“具体”地捕捉到对象,所以二者都可以使用。但是「わあ…」的句子中只具备“同时性”“具体性”,所以只能用「見える」。在「日本に行けば」的句子中,去「日本に行く」不能“同时”捕捉到对象,所以不能用「見える」。而「登る」和「行く」不一样,「登る」是一站在上面,自然而然就看到了,具有同时性,所以可以互换。
  
  二、「見られる」和「見ることができる」
  
  「Vることができる」是连语的可能表现形式,主要表达的是,由外部条件决定的动作、作用的可能。像上述例句那样,在大多数情况下「Vることができる」和可能动词是可以互换的,但是「見られる」和「見ることができる」也有不能互换的情况。
  1.只能用「見ることができる」
  20)おげんはまちくらした弟を自分の部屋に見ることができた。(「嵐」)
  这里的「見ることができる」如果换作「見られる」,就不能表达「おげん」终于见到日夜期盼的弟弟的那种喜悦心情。所以也可以说,「ことができる」比其它形式表达可能含义更强烈。
  2.只能用「見られる」
  21)見られるものではない。(×見ることができる)
  这个句子中不是在讲内外条件可能或不可能,而是在说“看的价值”。译成汉语是“不是可看的东西”/“有什么可看的”「飲める·食える·いける·聞ける」等少数词已经熟语化,直接表示前面名词的属性。而「見ることができる」就没有熟语化现象,不能互换。
  3.「見られる」和「見ることができる」都可以使用
  22)見たい時に見ることができ(○見られ)、書きたい時にかけるのです。
  上面的两个例子二者就都可以使用。但还是有些语感上的不同。由于「ことができる」的音节较多,因而使句子也较长,一般不作为连体修饰语使用。和「れる·られる」这样的动词可能态比起来,更具有书面语的语感。
  
  注释:
  ①②国際交流基金「教師用日本語教育ハンドブック文法Ⅱ助動詞を中心にして」凡人社,1982:45-46.
  
  参考文献:
  [1]森田良行.「基礎日本語辞典」.角川書店,1990.
  [2]森田良行.「日本語の類義表現」.創拓社,1989.
  [3]寺村秀夫.「日本語のシンタクスと意味Ⅰ」.くろしお出版,1984.
  [4]金子尚一.「可能表現の形式と意味(Ⅰ)“ちからの可能”と“認識の可能”について」.(論説資料保存会「国語が論説資料17」大三分冊),1980.
  [5]久野暲.「新日本文法研究」大修館書店,1983.
  [6]国際交流基金.「教師用日本語教育ハンドブック文法Ⅱ助動詞を中心にして」.凡人社,1982.